世界などどうでもいいおのれの意志で

ゆるい 平成の前に生まれた古い腐のブログです

「一度きりの大泉の話」私の感想

はじめに

萩尾望都竹宮惠子山岸凉子木原敏江青池保子池田理代子大和和紀
岸裕子、上原きみこ、細川千栄子、美内すずえ和田慎二一条ゆかり、忠津陽子。
ささやななえこ、樹村みのり山田ミネコ伊東愛子、名香智子、たらさわみち。

こうしてお名前を並べるだけでも、美と夢と愛とロマンと人生と勇気とその他もろもろ、輝きに満ちた世界が思い出されて、幸せになれます。
どの方も、お名前と同時に絵柄とキャラクターと代表作が浮かぶ方ばかりで、私の土台はこの方々の作品でつくられたといっても過言ではない。この方々の少しあとにも、吉田秋生魔夜峰央三原順……と、愛とリスペクトは続くのだけれども少年漫画もあげると終わらないけれどもおかせていただき。
「一度きりの大泉の話」そして「少年の名はジルベール」は、こうした少女漫画の黄金時代を作り出したオールスターが次々と登場し、名作の裏側、名作が生まれた人間関係の裏側を知ることができる、ファンにとっては貴重な2冊であることは、間違いがないと、まず言いたいです。
そこに書かれていることが、どれほど重く、つらい内容だったとしても。
偉大な漫画家、ストーリーテラーであるお二人の語り、それ自体がとんでもなく魅力的で、こうして読めることへの感謝をあらわさずにはいられないです。

 自分の話

私にとって萩尾望都先生は、少女の少し手前くらいの幼い頃から「ポーの一族」という素晴らしい作品で楽しませてくれた――という以上の感動と、いまの自分の仕事や価値観、大きなことにたくさん影響を与えてくださった方です。
ポーの一族」だけでなく「スターレッド」や「11人いる!」「マージナル」などのSF作品、バレエパレットロマンシリーズや「メッシュ」などの美しく繊細な作品も大好きです。
竹宮惠子先生は「地球へ…」で私に勇気と青春の思い出をくださった方です。「ポーの一族」のエドガーは、大人になれない自分の運命に悲観的でしたが、「地球へ…」のジョミーは、大人になれなかった自分を受け入れ、言われるままの大人になるなと若者達に呼びかけてくれました。そんなジョミーが私にはヒーローに見えました。当時好きだった男の子も「地球へ…」のファンで、共通の話題が出来て嬉しかった。「風と木の詩」「変奏曲」も大好きですし、コバルト文庫新井素子先生の作品の表紙を描いてくださった印象も鮮烈で、いまでも太一郎さんは先生の絵でしか思い出せません。
 昭和の時代にネットなんてないし子供の私に作家の裏側を知る機会も想像力もなく、お二人が一時期、大泉で同居されていたこと、お二人のところに多くの作家さんたちが集い、親しく交流されていたことを知ったのは、大人になってからでした。
とはいえその詳細はやはり掴めず、同じ趣味嗜好の女性同士が親しくなるのはいまでもごく普通にあることだから、そんな空気の豪華版だな、くらいの受け止め方でした。

「少年の名はジルベール

「大泉」の世界を具体的にイメージできたのは、本当にこの数年、「少年の名はジルベール」を読んだ時からかもしれません。その前にも「密やかな教育」という本で増山法恵さん(「大泉サロン」のキーパーソンですが、この時代の少女漫画に深く興味がある人じゃないとお名前を知らないかも)のインタビューは読んでいたけど、詳細は失念してました。
「少年の名はジルベール」では、竹宮先生が漫画を描きはじめたきっかけから、萩尾先生との出会いと別れ、作家としての苦しみ、やがて「風と木の詩」の連載を勝ち取るまでを、丁寧に綴っておられます。私はいたく感動して、とくに、竹宮先生・萩尾先生・そして山岸凉子先生・増山法恵さんの4人でヨーロッパ旅行をされたエピソードは、少女漫画への夢とロマンに溢れていて、この経験が「トーマの心臓」や「変奏曲」に繋がっているのだな、という深い感慨で胸が熱くなりました。竹宮先生が、萩尾先生の深い才能、本物の実力を突きつけられるようで徐々に怯えていくくだりは、つらく胸に迫り、先生の本心は意外だったけれども納得もありました。この本だけを読んでいたときには、年齢を重ねてそれぞれの道を確立されたいまであれば、また穏やかに集えることもあるだろう、と、読後の印象は暗くなかったです。同じように感じたのは、私だけではなかったと思います。

「一度きりの大泉の話」

そして、この3月に萩尾先生の「一度きりの大泉の話」発売の告知。これはあの「ジルベール」へのアンサーに違いないと、私はテンション爆あげで盛りあがり、絶対に読む!とブコメしました。が、告知記事のテキストやインデックスの内容から、明るい話ではなさそうだ、と、不穏な揺れも感じました。それでもとにかく読みたくて、本が届いたその日にさっそく読み始め、読み出すと止まらなくなりました。
そして――あの「小鳥の巣」当時のくだりを読んで、つらすぎて読む手を止めてしまい。頭を殴られたような気持ちになって、でも、読み続けなければいけない、これを書いてくださった先生の思いを受け止めずにはいられないと、最後まで読み通しました。
読み終えた直後は心が重くて、つらすぎて動けなくなって、これじゃいかんと近くにある脳直あほエロBL同人誌を読んで爆笑し、ありがとうエロに救われたとけっこう本気で感謝感動しましたあほエロに。そうして、改めて「一度きりの大泉の話」を咀嚼して(内容を思い返したという意味です。すぐにもう一度本を手にして読み直すのは無理でした)、つらかったけど読んで良かった、ご自身の平和を守るためとはいえ、こうして私たちにこの本を届けてくださって本当にありがたいと思いました。
間違いなく非凡な才能を持ち、いまも語り継がれる名作をいくつも生み出してきた萩尾望都先生が、神様ではなく、むしろ過剰なほど人間で、だからこそあれだけ心に響く物語を描くことができたのだと、この本から教わった気がします。
文中何度も「私はとろい」「食べるのも遅い」(わかります!私も!)と繰り返し、ご両親との確執もあって、なかなかご自分を褒められない先生。そんな先生に「私はナルシストちゃんなの」と明るく言ったり、家で漫画が描けないなら東京で一緒に住みましょうと誘ってくれた竹宮先生は、どれほど輝いて見えたでしょうか。少年愛、いまで言うボーイズラブの世界は、萩尾先生にはピンとこなかったようですが(言われるとですよねと思います……エドガーとアランも、オスカーとユーリもすてきだしメッシュとミロンとかマージナルの男達なんてそうでしかないけど、めっちゃドキドキしましたけど、先生の主眼は性的な興奮じゃないんだというのは伝わってました)、それでも、竹宮先生と増山さんの情熱を尊重し、作品を丁寧に読んでいた先生。お互いに漫画家として成長し、なんとか作品を世に伝えたいと願う中で、少しずつ、作家としてのあり方や、性格的な違いが浮き彫りになり、距離を感じる……というくだりは「少年の名はジルベール」でも書かれていたし、さみしいけれど珍しくない変化です。
ただ、いまの時代に読むと意外というか驚きなのは、先生方が「少女コミック」で執筆されていた当時は、竹宮惠子萩尾望都も決して花形作家ではなかった、読者アンケート下位ギリギリの状態だったと、お二人とも回想していることです。
竹宮先生は、アンケートの結果が悪くて自分の描きたいことが描けない、企画が通らないことで悩んでいたし、萩尾先生もご自身を「巻末作家」と自称して、「ポーの一族」がコミックスで大ヒットしたことに、(編集部含め)本気ですごく驚いていた。
言われてみるとそうだったかも……当時の「少女コミック」の巻頭常連といえば、細川千栄子、上原きみこ、岸裕子、だった気がします。岸裕子先生は週刊で読んだ記憶はほぼないですが、細川、上原両先生は週刊と別冊(月刊)、どちらでも大人気だった。で、岸裕子先生は男女のラブコメを隠れ蓑にしてやりたいほうだいBLやってたんですよね、しかもあからさまなナマモノで! 私はそんな岸裕子先生の作品も1万字書けるくらい大好きなので「一度きりの大泉の話」のなかに先生のお名前が出てきてすごく嬉しかったです。萩尾先生とは絵柄も作風もまるでかけ離れているけれど、やはり同時代の漫画家として、つながりあるところにいらしたんだなあと。
話がそれてしまいましたが、伝説の巨匠たちも若き日は生き残りに必死の悩める作家たちだった。その状況で何を思い何を目指し、互いがどのように見えていたか――当時、ただの幼い一読者だった私には、もちろん本当のことはわかりません。そこで起きたつらい出来事についても、先生がご自身の言葉で語られている以上のことを付け足して語りたくはありません。ただ、萩尾先生が、読んでいるだけでも胸を刺されるようなつらい状況から、もう一度漫画を描くことを選んでくださったことに、ひたすら感謝するだけです。
そして、竹宮先生のお心についても、知ったようなことを言うのは控えたい。まして、どちらがどうでどちらがより良かったとか悪かったとか、勝手な野次馬分析をするのは、あの頃の少女漫画に受けた恩を仇で返す行為でしかないと思っています。
「一度きりの大泉の話」の後半で、萩尾先生は、根拠のない噂を勝手に流されて何度も困惑した経験を語り、やがてなぜそんなことが起きるのか、という考察から、ひいてはご自身に起きたことについても冷静に分析されています。
このあたりは、先生の作家としてのスタンスや矜恃がよくわかり、読者としてはついおもしろく読んでしまうのですが(木原敏江先生の「銀河荘なの!」作中に、エドガーが特別出演した経緯とか……「銀河荘なの!」も大好きだったので、とつぜんのエドガーにひっくり返った、嬉しかった)、異論がある人もいるかもしれない。私はただ、これも萩尾先生のお心だし、ストーリーテラーである先生なら、ここまで書いてきたことに、なんらかの答えを用意されるのも当然だな、と受け止めるだけです。

先日、アニメ脚本家の大河内一楼先生の講座に出席する機会がありました。最新作「エスケーエイト」がめちゃ好きで、大河内先生の脚本の裏切り方にひかれて講座に申し込み、貴重なお話がたくさん聞けて良かったのですが、中で先生が「エスケーエイト」の後半について、「暦とランガはまだ若いから、すれ違ってもやり直せる。大人になると、もう取り戻すことはできない」と仰っていたのが印象的でした。
そういえば、自分自身を振り返っても、もう30年も昔、どうしても許せないと思った出来事、相手がいて、いま思い出しても当時の心は変わることなく、水に流すなんて不可能だし、安易にそれを第三者から求められたら、求めた相手にも腹が立ちます。
人の心には他人が立ち入れない領域があって、年月はそれを強固にし、萩尾先生が書かれているように「永久凍土」となることもある。赤の他人が好奇心でそれを無理矢理溶かそうと、晒そうとするのは暴力ですよね。

終わりに

読後すぐは、この本の感想を書くのは控えたかった、自分だけの思い出と一緒に大切にすればいいと思っていました。でも、だろうなと思ったけどTwitterの感想がまとめられて衝撃とかタイトルをつけられて、きつい言葉も目にしてしまって都度都度いやな気持ちになって、だったら、自分の気持ちも言葉にしてこれをお守りにしようと思い、同時に、萩尾先生、竹宮先生、2冊の本に登場するすべての漫画家の先生方、そして伝説の編集者である故・山本順也さんに、あの頃、すべてが大好きでした、すばらしい作品をありがとうございますと感謝を言葉にしたくて書きました。 
萩尾先生、40年ぶりにもう一度エドガーと会わせてくださって、本当にありがとうございます。この先、アーサーと、そしてアランがどうなるのか、楽しみに読ませていただきます。宝塚の舞台も素晴らしかった。先生が「一度きりの大泉の話」を出版するにあたり、当時の読者も大人になっているからと、信頼してくださったのが嬉しいです。
竹宮先生、漫画家として、そして次世代の導き手としてのご活躍、心から応援しています。2012年に都条例で漫画が規制されそうになったとき(「非実在青少年」とかいわれたあのときです)、先生が、条例に反対する漫画家の先頭に立ってくださって、いまはない池袋の豊島公会堂で登壇してくださったときのこと、私は一生忘れません。少女の私に勇気をくれたジョミーのように、あの日の先生はヒーローでした。
最後に山岸凉子先生まじ神。先生がいてくださって本当によかった。毛人のバカ。でも35年ぶりくらいの厩戸皇子をもしお考えでしたら……かなりかなりこわいですが絶対読む。
「少年の名はジルベール」と「一度きりの大泉の話」は、同じ棚には置かないけれど、ずっと大切に持っていたいと思います。

 

 

 

解像度ひくいシンエヴァの感想【ネタバレ】

普通におもしろかった+そこは良かった!+エッそれですか!?くらいの感情だったのですが、私の好きなfont-daさん、グダさんが第三村のシーンは上手くない、陳腐みたく書かれていて、そうなんだ、私はあれが好きでいいと思ったよなぜなら~とブコメしたかったけど、ネタバレになるのでこれを書くことにしました。

なので以下は全面的にネタバレです。

 

*私が第三村のシーンを好きだった理由

だってトウジがヒカリと幸せになってるんだもん!! 以上

これだけだと解像度ひくいにもほどがあるからもう少し丁寧に書きますと、私は、テレビシリーズの時からトウジがエヴァの男子で一番好きで、女子で一番好きなのはヒカリだったんですよ。
トウジとヒカリは、あんなめんどくさい世界にいながら、ずっと、優しい普通の少年少女でいてくれたじゃないですか。なんとかの槍とかなんとかチルドレンとかなんとか計画みたいなワケわからない台詞を言わず、大変な世界になってもいまの私たちとたいして変わらない日常を続け、トウジは妹のためにエヴァに乗ることを引き受け、ヒカリはトウジのためにお弁当を作ってあげようとする。ミサトの家を飛び出したアスカを受け入れて部屋に泊めてあげる。
彼ら個人の物語は、シンジやアスカ側の物語が好きな人にとってはわざとらしい雑音だったかもしれないけど、私は、彼らの側の物語があることで、そこから疎外されるシンジ君たちの物語も際だっていくと思ったし、何より当時すでに大人だったので、登場人物みんなギスギスして中二病だったら疲れてついていけなかったから、トウジとヒカリがいてくれて良かった、と思うわけです。
なのにテレビシリーズではトウジが悲しい結末を迎えてしまい、ヒカリのお弁当はどうなったの……で終わってしまいましたよね。
Qではトウジの妹と、古いシャツだけが登場し、トウジはニアサーで死んじゃったの?みたいな思わせぶりで、しかしそれ以上に鬱要素が多すぎてそれどころじゃなかった。
それが! 今回のシンエヴァになったら大人になってよりかっこよくなったトウジが登場して、相変わらずめんどくさいシンジや、いま不思議ちゃんかよな綾波シリーズをまったく責めず、余裕で受け入れてくれるじゃないですか。死んでない。脚もある。うわーん良かったトウジちゃんと生きていて良かったよ…と思いつつ、なんかトウジ家族いそうだね? 一人暮らしじゃなさそうだね? 的な空気があって、あっこれはもしかして……とこっそり期待したんです。
トウジに家族がいるなら、それは知らない人じゃないほうがいい、できれば私が知っているあの子であっていてほしい……と祈っていて、ついにヒカリが登場してくれたときには、よっしゃー!で心でガッツポーズ、感激でした。
言うまでもないけど私は脳の芯まで男性同士の愛と性の物語に溺れた腐女子で世界のすべてをそのような視点で見ているといっていいですが、そんな私でもごくまれに、この二人は応援したいと思う男女の組み合わせがあるんです。トウジとヒカリはその数少ない例外のひとつで、ここでヒカリが彼の子を抱いて登場したとき、ほんと良かった、あのお弁当はちゃんと受け取ってもらえたんだ…もう全部ゆるす、と思いました。
なんていうかね
ミサトやシンジ君達が命をかけて守ろうとしていたのはつまりこういう人の営みが続いてく世界なんでしょ それは、エヴァ本筋側にいる彼らの幻想、美化された世界かもしれないし、リアルに考えたら第三村みたいにきれいにならないといえばそう。でも、あの物語のなかで美しく描かれることで、小さき人が生きる世界への愛を感じられたのが嬉しかった。トウジとヒカリに私がずっと託していた、ささやかな祈りの続きがあった。ケンスケが、ニアサーがなければあの二人は結婚してなかったと思うと言ってて、ケンスケが言うならきっとそのとおりで、それまでの経緯を想像すると、明るいだけじゃなかったと思う。でもそこは(当然)深くつっこまない。村の描き方は本筋の緻密でハードな描き方と比べて拙かったかもしれないけど、作劇上のやっつけとは私は思いませんでした。あの村の人は、みんなこれが明日には終わる箱庭のお芝居みたいなことは理解していて、だから、その役割を演じることで、正気のアイデンティティを保っていたのかもしれないじゃん。トウジやヒカリがそれを自覚しているような台詞もあった。そうして、お芝居みたいなロールプレイングであっても、人の幸せを知らない綾波に、幸せだけを教えてくれて有難かった。私はアスカとレイなら圧倒的にレイ派で、レイはいつも、他人がどう言おうとそれがレイの幸せだという幸せを自分で見つけて、今回も、アスカに、お前のそれはプログラミング行動じゃんみたく言われても、べつにいいと言い切ってくれたので、レイ派でよかったと思います。
そんなわけで私は私が好きなトウジとヒカリにとって第三村が救済であり、綾波シリーズにとっても貴重な時間になってくれたので、あの描き方も含めてとても好きです。

ここでだいたい言いたいことは言ってしまったのですが、せっかくなので本来の?自分的な感想ももうちょっと書く

*ついに来た私に刺さる男×男の組み合わせ

えっ加持さん×カヲル君……!? 有りですね(逆も可)


まじめに本筋考えると、ねえよ!!な組み合わせなんですけど、人物像だけ考えると妙に納得感があり、私的にもエヴァで初めてアッと刺さったので嬉しかった笑
エヴァ時代、公式がカヲル×シンジを狙っていたというのは有名な話(真偽は知りませんがそう言われてた)で、当時のコミケカヲシンサークルが島ひとつ分を獲得したとき、密かに偵察に来ていたスタッフが凱歌を上げた、というのは腐女子伝説のひとつとなっているのですが
あくまで私的には、頭ではわかるけど情動のツボにハマらないといいますか、シンジ君とカヲル君(あえていうなら私はシンカヲ)の組み合わせは、「ポーの一族」のエドガーとアラン、「風と木の詩」のジルベールとセルジュみたいな、観念的な関係に見えたんですよ。
それは王道古典のBLじゃないのか!?と、あっちこっちから言われそう、たしかに王道古典なんですが、竹宮先生もみずからおっしゃっていたように、このあたりの少年×少年は、少女×少女の形を変えたものなので、美しいし、非常に大切な、尊い、ひかれずにいられない関係だけど、萌えとかやばいとかエロティックな意味では、少なくとも私には刺さらない。腐女子の嗜好ってそれとして濃くなればなるほど大人×大人を求める傾向があると思うんです、ショタは男性向けカテゴリって昔から言うし、少年、ショタ寄り属性持ちの腐女子はしばしば男性向けも描いてるってあるしね。
話戻して、エドガーとアラン、ジルベールとセルジュ、シンジ君とカヲル君に共通するのは「どっちか一人がどっちか一人をつねに引き受け、守って諭して何かを与えようと奮闘するのに悲恋に終わる」展開です。
Qでも自覚的にそう描かれていたように、カヲル君はいつもいつも、いつまでたってもシンジ君のために存在して彼を受け止めて彼になんか与えて死んでいく存在で、カヲル君という個人を、彼の物語を持っていなかった。彼が女子だったらフェミの人にめちゃ叩かれる役割じゃん、男子だったので萌えられちゃって苦労しながら幾星霜
それが! 今回、ラスト近くでなんかぐるぐるするうちに、初めて彼にも渚カヲルとしての存在、独白、感情みたいなものをもらえて、見た目少年だけど中身大人で、傍らにいるのがカヲル君同様、ずっと大人役で頑張ってきた加持さんだって!! やった!! アスカをいなし、ミサトを大人にして死んじゃった加持さんが、なななんとカヲル君の部下になり、なんですゲンドウと冬月ですかみたいな立ち位置とって仲良くしてる世界……なんだろうこの勝利感……真にいい男はガキや女なんかにあげないわよ的な……エスケーエイトのジョーはチェリーにしか心ゆるさないよねみたいな(ジョーチェリいいよね) 
私的にはここが一番のありがとうエヴァンゲリオンポイントでした。そこか。そこです。
シンジ君が希望に向かったあと、カヲル君ひとりで幻想のガワみたいになって知らん空間を漂う終わり、とかにならないでよかった。カヲル君もここまでの奮闘をちゃんとねぎらってもらえてよかった&急に出てきた新キャラの女を労いのように与えられるありがち展開じゃなくて本当に良かった! ありがとう!
もし公式が、エヴァを見ている腐女子ファンの心をここまで計算してたなら本当に凄いと思います。
カヲシン応援していた腐女子の人たちには申し訳ない、あくまで私的には理想の形でカヲル君が救済されたという感想です。大人のエヴァは新カプも大人……エドガーもアランを40年引きずらなくてもそろそろアーサーと幸せになってもファンは怒らないよ

 

*こんな解像度ひくいファンでも長く付き合えるエヴァってすごい
 

私にとってエヴァジブリと同じカテゴリにいる作品


こうしてみると私って、エヴァに熱狂した人たちのボリュームゾーンからことごとく外れてるんだな
コアになってる物語の読み解きや用語の意味とか全然知らんし、シンジが私と思ったことは一度もないし、細部を見つめて細かい意味づけを見つけて咀嚼したこともなく、旧劇場版と序と破はもはや記憶も曖昧だよ。ちなみに私の連れなんて、レイとアスカの名前もうろ覚えになってるだめ中年のおじさんですが、それでも、私も連れも、テレビシリーズから全部エヴァ見て、今回ようやくシンエヴァが公開されたら、当然のようにさくさく見に行く。
このいい加減な受容と確実な行動に共通するのがジブリ宮崎駿)アニメの鑑賞体験
ジブリも何度見ても細部はよくわからないし言語化できん
エヴァジブリに私が共通して求め、味わっているのは、整然として美しい、その魅力が誰にでもわかる絵を見る快楽と、あの画面から漂うノスタルジーなんですね。
新海誠は女と東京への目線が大大大嫌いだから絶対見ない)
結構、そういう人いるんじゃないかなあ
とくにエヴァはノスタルジーの比率高いです
電線や団地、工場、コンビナートの景色がたくさん出てくるだけでもう嬉しい
流れる音楽のドラマチックさともの悲しさに、幼い頃見た夕暮れの景色を思い出す
なぜマリは懐メロ歌ってんの? マリだから天地真理の「ひとりじゃないの」歌ってるの? なんとなくかな、つかこうへいも自分の心にピンときた歌謡曲から芝居を作っていたそうなので、庵野がずっと持ってる小劇場演劇的な演出方法なのかもしれない。私もずっと小劇場の演劇に親しんで来たから、そこもノスタルジーポイントなのかも。
という話を連れにしたら「映画ファンにとっても知ってる演出をたくさん見つけて喜んでしまうポイントがある」と言ってた じゃあそれなりにものを知ってきた中年の懐古なのかといえば、テレビシリーズの時には生まれてなかった高校生がいまエヴァにハマり中毒して、劇場に通って味わわないとあの綾波のように自分が崩壊してしまいそうだ、と語ってる話も聞いたので、心が新鮮な若い人に「ここではないどこか」を見せる衝撃もちゃんとあるんだろうなと思います。
コアなアニメやSFファンから、古い腐女子や現役DKまでそれぞれの理由で引きつけるエヴァってやっぱりすごい
これを書きながらいろんな感想や考察を読み、旧劇からのコアファンの怒り嘆きも感じました それも間違ってないだろうけど「庵野が勝手に俺たちを見捨てて商業化され大人になった」は旧劇の頃から繰り返し言われて、新劇場版でも序からずーーっと言われて続いてるから、中心から離れたゆるいファンには愛情表現に見えてしまうな エヴァだけじゃなく庵野秀明のおたくなんだなという人もたくさんいるので、いまはあんなに怒っていても、きっとシンウルトラマンが公開されたら(自称)骨を拾うつもりで見に行くんだろうな~ 私も見るからまたおもしろい怒りや呪詛感想も読めそうなので楽しみです!

自立対等コミュニケーションセックスなポルノが嫌いな私ですが

・「お母さん食堂」はジェンダーバイアスを強化している
 →そうかも この先は考えていい

・アツギのタイツ絵はタイツフェチ向けのエロ絵
 →全部じゃないけどそういう絵もあった 客層考えてオーダーしたほうがいい

・宇崎ちゃんの巨乳強調絵を献血ポスターにするのはどうなの
 →コミケ会場なら全然いいけど普通の街角だと嫌な人もいるかもね

みたいな感じで、近頃よく言われるフェミの人たち?からの批判には、そんなに反発を感じないのでした
法で規制を求めるとか言い出したら即反対しますが、巷の意見として声をあげ、同調する人が増える分にはいいと思う それをどう受け止めるかは企業なり団体なり次第で
たとえば少年ジャンプなんかは、昔から何度も似たような批判起きてるけど、謝罪や撤回はしないじゃないですか
時代にあわせて少しずつ表現を変えたり、新たな表現を探したりしてると思うけど、掲載された内容について、直接差し替えたりはしていない
ずいぶん前だけどどこかの美術館で、会田誠の少女エロ、というか性虐待と批判された絵が展示されたときは、18禁であること、事前の注意書きがあることを理由に、美術館は撤回要求に応じなかったんじゃなかったっけ? 違ってたらごめん
批判された側もその表現に至るまでに検討して判断しているのなら、それを貫く選択もあるし、言われてみれば考えが足りなかった、と思うなら、撤回なり差し替えなりしたらいいと思う
すごい普通のことしか言ってないな
そう、批判じたいは賛否あるにせよ悪いわけじゃないし、対処する側にも自由があるのに、なんでネット上のフェミニスト発言はそれ自体が害悪と言われるんだろ
批判に賛同しないなら、自分は同意しない、これは問題ないと思う、なぜなら~みたいな話になるのが自然だと思うんだけど、一挙に「こいつらは頭がおかしい」「言葉狩り」「だったらこれも批判しろ」みたいな、個別の意見じゃなく存在そのものに喰ってかかるような論調になる なぜか
あれですか、フェミと呼ばれる人たちの物言いが、ときに傷ついたヒロインのごとく「涙が出た…ひどいよ、こんなのってない…○○な○○はどこへ行ったの?」みたいに酔いがちなのが嫌なんでしょうか
わかる あれは嫌だ フェミ案件じゃないけど腐女子学級会でよく出るウエットな物言いは私もうざい つい勘に障って「やかましい!」と言いたくなる
そこは、その気持ち悪い自己陶酔文言やめろと言った上で、内容を検討でいかがでしょうか いかがって誰に言ってるんだか
あとは話の切り分けかな~
「お母さん食堂」とか「奥さん、ご主人」みたいなジェンダーバイアスの話と、タイツ絵や宇崎ちゃんみたいなエロ表現のTPOみたいな話 根っこは一緒なんだけど、一緒くたにして語ると「めんどくせえな」に振れがちなので、方向性別に是々非々とか
ジェンダーバイアス
1そもそも無くす必要がないので現在の表現もすべて現状維持
2バイアスは減らすほうがいい、表現の賛否は個別判断
3あってはならないので指摘された表現はすべて消滅すべし
エロ表現は
1エロは自然の発露なので法に触れない限りすべて現状維持
2エロをエロじゃないと称して子どもに見せるのはおかしい、何がエロかは個別判断
3エロ=性的消費は人権の侵害なので厳重に隔離もしくは消滅すべし
て、書くとじつはだいたいの人はどっちも2じゃね? 本気で1の人と3の人がやりあってる現状と思えなんですがそうなのかな……2でありながら、1のほうを向いてる人と3のほうを向いてる人がいて、どこが落としどころかすりあわせるのが建設的な議論てやつじゃないかと思うんだけど

なんて書くと微妙にフェミの人の味方っぽいけど私はフェミの人の殆どに嫌われるタイプのエロやBLが大好きなので味方になれない
ただ、なんていうか、悪いこと言ってるわけじゃない(はず)にもかかわらず、狂気の集団のようにレッテル貼りされる最近の傾向はちょっとな~と、気持ちの整理メモとして書くのでした

男性が男性を好きじゃない理由は外見説

男性は男性を救えない話、増田などでよく話題になっているので私もときどき読んでるのですが
基本はまあ、だいたいの女性とおんなじで「気持ちわからなくもないけど女性もつらいんで、ケツをもってくるのは勘弁してください」なんですね
ただ、男性が自分の私的な内面、感情を語れるようになったのは、それすら「男らしくない」とはばかられた時代から比べると、生きづらさ問題一歩前進ではとも思う

で、本題ですがfont-daさんのブログ

font-da.hatenablog.jpを読んで考えたのがタイトルの説
いろいろ言われてるけど、シスへテロの男性が男性を好きになれない、寄り添えない大きな理由に、ヒゲや臑毛やゴツい身体や体臭など、外見、生理的な男性の特徴への嫌悪感てあるんじゃないかな font-daさんが言及されてる「さらざんまい」私はアニメ見てないんですが、主人公達は「少年」ですよね ヒゲも臑毛もそんなにでもなく、まだ男性として肉体的に落ち着く前の だからつながる可能性を求めてあがける
これが10代も後半になり、男性的要素の強い肉体に成熟してくると、根が繊細で潔癖な傾向があったり、運動などの男性的要素が有利にはたらくものが苦手だったりする男性にすれば、けっこうな負荷になるんじゃないかな 自分はもちろん周囲の同性も含めて「きれいじゃない」と感じてしまう もしも男性が、成人しても女性的な服装やメイクが似合い、声も低くなりすぎず体毛体臭もキツくなければ、内面や社会的役割がそのままでも、もうちょっと、距離を縮められたのではないでしょうか
自分の周囲の男性を見ても、まじめで頭良くて文系寄りセンスの男性は男嫌い率高いんですが、同時に(ときに女性より)女性的な文化が好きで潔癖傾向があって、性的志向と関係なく、自分がそれをゆるせるなら女装したいと考えている(ゆるせないのでしない)

いっぽうというか、世にいるイケメンアイドルやイケメン俳優たちは、なんでこんなに?というくらい男同士でイチャイチャしてるし、めっちゃスキンシップしていることは、推しってやつがいる女性ならだいたい知っていると思う
あれは、女性がそういう男性の姿を見ると喜ぶ=女性からの賛辞と承認をたくさんもらうと自分も喜ぶという理由がもちろん大きいと思うんですが、イケメンはたいていすべっとしていてキラキラした衣裳が似合ってあまり男性的なコクがないので、互いに外見的なハードルが低いから、近づきやすいってあるんじゃないか

もしも外見や生理的な忌避感が理由だとすると、男性同士もヒゲを手入れしてかるくメイクして華奢に見える服を着るようにすれば、ちょっとは解放されるんじゃないかな?そういう意味でも「男性用ブラ」はいいとこついてるんじゃないだろうか

 

最近のはてな

twitterでの男女の仲悪さがはてなにも流入してきてしんどい
増田のトラバは前から女の悪口を言いたいだけの2ちゃねらみたいな人多かったけど、いまはてブにもすごく増えてる
なんでだろ、昔も喧嘩はあったけど、もっとそれぞれ個別認識ある状態で喧嘩してた印象なのが、いまは名前もわからない覚えられない言ってることもだいたい同じでただ女を悪く言いたいだけの増田男たちがブコメでもわあわあ言っていて、いっぽう、男性に批判的なこと、けっこうきっぱり言う女性たち、フェミの人と言ってもいい女性たちは、はてなに残ってる人とても少ないので、いまは増田男たちの言葉のほうが優勢な印象

私はフェミの人じゃないしむしろかつてのフェミの人には嫌われるようなことばかり言ってた記憶なんだけど、2ちゃんの続きみたいなはてなを望んでたわけじゃない
コミュニティの寿命とか一生の中では起こりえる状態なんだろうか
しなもんは天国で楽しく過ごしているのだろうか

はてなの思い出

ハイクが明日で終わりになってしまうのでとりあえずこちらに来ました
今までハイクで書いてたようなことをときどきここに書くつもりです
このごろはハイクも月1で書けるか書けないかだったから、こっちもそのくらいかそれ以下かも

はてなに最初に登録したのはたしか2007年くらいでしたか
なぜ登録したかもう忘れたけど、ずっとブックマークだけ使ってたから、たぶん、何かどうしてもブックマーク&コメントしたい話題があったんだと思います
一番はてなにはまってたのはたぶん絶対、2009年のレイプレイ騒動に始まる表現規制問題のとき
女性はみんな凌辱エロゲの被害者みたく言われがちでやめれおれは純愛エロゲのが嫌いなんだよ凌辱ポルノは少なくともロマンチックラブイデオロギーのような嘘はないだけ楽しめるんだと言いたいために毎日必死
100字でブクマコメントするのに脳みそ鍛錬してるみたいでそれも結構楽しかったな

そして、この頃いろんなはてなーの人を知り、喧嘩した人もいたけど好きになった人のほうが多かった はてなの人は、私もだけど自分だけの理屈みたいの持つ人が多いから、理解できたかはわからないけど、好きになれたことは確かです
この頃はガンダム00が大好きで、劇場版を10回くらい見に行ったなー
と、過去のように言ってますがいまでも00大好きに変わりはない
グラハム・エーカーのことはいまも2次元最強に敬愛してる
はてなでグラハムのネタで何か書いて☆もらうと異様に嬉しかったw

その後、タイバニを経てゴーカイにはまって、出入りするコミュニティが変わったり、ナマモノの話はしづらかったりはてなのほうもtwitterに人が流出してしまったりで、ログインする時間も少なくなった
好きだった人がだんだんとはてなからいなくなり、でも私はやめようとは思わなかったな
以前のような「言葉のドッジボール」の緊張感は薄れたけれど、ブクマもハイクも、気を遣わずに言いたい時に言いたいことだけ言えるのが良くて
お題を書いたりはしなかったけど、ハイクでIDページ見てくれる少数の人相手にゆるく語って、ときどきハイクでもブクマもらったり、ここだけの良さだったなあ

ブログの最初の記事なのに、やっぱり最後みたいになったw
きっとまた書きます
ハイクありがとう ブクマ、まだ時々は続けるよ