世界などどうでもいいおのれの意志で

ゆるい 平成の前に生まれた古い腐のブログです

「一度きりの大泉の話」私の感想

はじめに

萩尾望都竹宮惠子山岸凉子木原敏江青池保子池田理代子大和和紀
岸裕子、上原きみこ、細川千栄子、美内すずえ和田慎二一条ゆかり、忠津陽子。
ささやななえこ、樹村みのり山田ミネコ伊東愛子、名香智子、たらさわみち。

こうしてお名前を並べるだけでも、美と夢と愛とロマンと人生と勇気とその他もろもろ、輝きに満ちた世界が思い出されて、幸せになれます。
どの方も、お名前と同時に絵柄とキャラクターと代表作が浮かぶ方ばかりで、私の土台はこの方々の作品でつくられたといっても過言ではない。この方々の少しあとにも、吉田秋生魔夜峰央三原順……と、愛とリスペクトは続くのだけれども少年漫画もあげると終わらないけれどもおかせていただき。
「一度きりの大泉の話」そして「少年の名はジルベール」は、こうした少女漫画の黄金時代を作り出したオールスターが次々と登場し、名作の裏側、名作が生まれた人間関係の裏側を知ることができる、ファンにとっては貴重な2冊であることは、間違いがないと、まず言いたいです。
そこに書かれていることが、どれほど重く、つらい内容だったとしても。
偉大な漫画家、ストーリーテラーであるお二人の語り、それ自体がとんでもなく魅力的で、こうして読めることへの感謝をあらわさずにはいられないです。

 自分の話

私にとって萩尾望都先生は、少女の少し手前くらいの幼い頃から「ポーの一族」という素晴らしい作品で楽しませてくれた――という以上の感動と、いまの自分の仕事や価値観、大きなことにたくさん影響を与えてくださった方です。
ポーの一族」だけでなく「スターレッド」や「11人いる!」「マージナル」などのSF作品、バレエパレットロマンシリーズや「メッシュ」などの美しく繊細な作品も大好きです。
竹宮惠子先生は「地球へ…」で私に勇気と青春の思い出をくださった方です。「ポーの一族」のエドガーは、大人になれない自分の運命に悲観的でしたが、「地球へ…」のジョミーは、大人になれなかった自分を受け入れ、言われるままの大人になるなと若者達に呼びかけてくれました。そんなジョミーが私にはヒーローに見えました。当時好きだった男の子も「地球へ…」のファンで、共通の話題が出来て嬉しかった。「風と木の詩」「変奏曲」も大好きですし、コバルト文庫新井素子先生の作品の表紙を描いてくださった印象も鮮烈で、いまでも太一郎さんは先生の絵でしか思い出せません。
 昭和の時代にネットなんてないし子供の私に作家の裏側を知る機会も想像力もなく、お二人が一時期、大泉で同居されていたこと、お二人のところに多くの作家さんたちが集い、親しく交流されていたことを知ったのは、大人になってからでした。
とはいえその詳細はやはり掴めず、同じ趣味嗜好の女性同士が親しくなるのはいまでもごく普通にあることだから、そんな空気の豪華版だな、くらいの受け止め方でした。

「少年の名はジルベール

「大泉」の世界を具体的にイメージできたのは、本当にこの数年、「少年の名はジルベール」を読んだ時からかもしれません。その前にも「密やかな教育」という本で増山法恵さん(「大泉サロン」のキーパーソンですが、この時代の少女漫画に深く興味がある人じゃないとお名前を知らないかも)のインタビューは読んでいたけど、詳細は失念してました。
「少年の名はジルベール」では、竹宮先生が漫画を描きはじめたきっかけから、萩尾先生との出会いと別れ、作家としての苦しみ、やがて「風と木の詩」の連載を勝ち取るまでを、丁寧に綴っておられます。私はいたく感動して、とくに、竹宮先生・萩尾先生・そして山岸凉子先生・増山法恵さんの4人でヨーロッパ旅行をされたエピソードは、少女漫画への夢とロマンに溢れていて、この経験が「トーマの心臓」や「変奏曲」に繋がっているのだな、という深い感慨で胸が熱くなりました。竹宮先生が、萩尾先生の深い才能、本物の実力を突きつけられるようで徐々に怯えていくくだりは、つらく胸に迫り、先生の本心は意外だったけれども納得もありました。この本だけを読んでいたときには、年齢を重ねてそれぞれの道を確立されたいまであれば、また穏やかに集えることもあるだろう、と、読後の印象は暗くなかったです。同じように感じたのは、私だけではなかったと思います。

「一度きりの大泉の話」

そして、この3月に萩尾先生の「一度きりの大泉の話」発売の告知。これはあの「ジルベール」へのアンサーに違いないと、私はテンション爆あげで盛りあがり、絶対に読む!とブコメしました。が、告知記事のテキストやインデックスの内容から、明るい話ではなさそうだ、と、不穏な揺れも感じました。それでもとにかく読みたくて、本が届いたその日にさっそく読み始め、読み出すと止まらなくなりました。
そして――あの「小鳥の巣」当時のくだりを読んで、つらすぎて読む手を止めてしまい。頭を殴られたような気持ちになって、でも、読み続けなければいけない、これを書いてくださった先生の思いを受け止めずにはいられないと、最後まで読み通しました。
読み終えた直後は心が重くて、つらすぎて動けなくなって、これじゃいかんと近くにある脳直あほエロBL同人誌を読んで爆笑し、ありがとうエロに救われたとけっこう本気で感謝感動しましたあほエロに。そうして、改めて「一度きりの大泉の話」を咀嚼して(内容を思い返したという意味です。すぐにもう一度本を手にして読み直すのは無理でした)、つらかったけど読んで良かった、ご自身の平和を守るためとはいえ、こうして私たちにこの本を届けてくださって本当にありがたいと思いました。
間違いなく非凡な才能を持ち、いまも語り継がれる名作をいくつも生み出してきた萩尾望都先生が、神様ではなく、むしろ過剰なほど人間で、だからこそあれだけ心に響く物語を描くことができたのだと、この本から教わった気がします。
文中何度も「私はとろい」「食べるのも遅い」(わかります!私も!)と繰り返し、ご両親との確執もあって、なかなかご自分を褒められない先生。そんな先生に「私はナルシストちゃんなの」と明るく言ったり、家で漫画が描けないなら東京で一緒に住みましょうと誘ってくれた竹宮先生は、どれほど輝いて見えたでしょうか。少年愛、いまで言うボーイズラブの世界は、萩尾先生にはピンとこなかったようですが(言われるとですよねと思います……エドガーとアランも、オスカーとユーリもすてきだしメッシュとミロンとかマージナルの男達なんてそうでしかないけど、めっちゃドキドキしましたけど、先生の主眼は性的な興奮じゃないんだというのは伝わってました)、それでも、竹宮先生と増山さんの情熱を尊重し、作品を丁寧に読んでいた先生。お互いに漫画家として成長し、なんとか作品を世に伝えたいと願う中で、少しずつ、作家としてのあり方や、性格的な違いが浮き彫りになり、距離を感じる……というくだりは「少年の名はジルベール」でも書かれていたし、さみしいけれど珍しくない変化です。
ただ、いまの時代に読むと意外というか驚きなのは、先生方が「少女コミック」で執筆されていた当時は、竹宮惠子萩尾望都も決して花形作家ではなかった、読者アンケート下位ギリギリの状態だったと、お二人とも回想していることです。
竹宮先生は、アンケートの結果が悪くて自分の描きたいことが描けない、企画が通らないことで悩んでいたし、萩尾先生もご自身を「巻末作家」と自称して、「ポーの一族」がコミックスで大ヒットしたことに、(編集部含め)本気ですごく驚いていた。
言われてみるとそうだったかも……当時の「少女コミック」の巻頭常連といえば、細川千栄子、上原きみこ、岸裕子、だった気がします。岸裕子先生は週刊で読んだ記憶はほぼないですが、細川、上原両先生は週刊と別冊(月刊)、どちらでも大人気だった。で、岸裕子先生は男女のラブコメを隠れ蓑にしてやりたいほうだいBLやってたんですよね、しかもあからさまなナマモノで! 私はそんな岸裕子先生の作品も1万字書けるくらい大好きなので「一度きりの大泉の話」のなかに先生のお名前が出てきてすごく嬉しかったです。萩尾先生とは絵柄も作風もまるでかけ離れているけれど、やはり同時代の漫画家として、つながりあるところにいらしたんだなあと。
話がそれてしまいましたが、伝説の巨匠たちも若き日は生き残りに必死の悩める作家たちだった。その状況で何を思い何を目指し、互いがどのように見えていたか――当時、ただの幼い一読者だった私には、もちろん本当のことはわかりません。そこで起きたつらい出来事についても、先生がご自身の言葉で語られている以上のことを付け足して語りたくはありません。ただ、萩尾先生が、読んでいるだけでも胸を刺されるようなつらい状況から、もう一度漫画を描くことを選んでくださったことに、ひたすら感謝するだけです。
そして、竹宮先生のお心についても、知ったようなことを言うのは控えたい。まして、どちらがどうでどちらがより良かったとか悪かったとか、勝手な野次馬分析をするのは、あの頃の少女漫画に受けた恩を仇で返す行為でしかないと思っています。
「一度きりの大泉の話」の後半で、萩尾先生は、根拠のない噂を勝手に流されて何度も困惑した経験を語り、やがてなぜそんなことが起きるのか、という考察から、ひいてはご自身に起きたことについても冷静に分析されています。
このあたりは、先生の作家としてのスタンスや矜恃がよくわかり、読者としてはついおもしろく読んでしまうのですが(木原敏江先生の「銀河荘なの!」作中に、エドガーが特別出演した経緯とか……「銀河荘なの!」も大好きだったので、とつぜんのエドガーにひっくり返った、嬉しかった)、異論がある人もいるかもしれない。私はただ、これも萩尾先生のお心だし、ストーリーテラーである先生なら、ここまで書いてきたことに、なんらかの答えを用意されるのも当然だな、と受け止めるだけです。

先日、アニメ脚本家の大河内一楼先生の講座に出席する機会がありました。最新作「エスケーエイト」がめちゃ好きで、大河内先生の脚本の裏切り方にひかれて講座に申し込み、貴重なお話がたくさん聞けて良かったのですが、中で先生が「エスケーエイト」の後半について、「暦とランガはまだ若いから、すれ違ってもやり直せる。大人になると、もう取り戻すことはできない」と仰っていたのが印象的でした。
そういえば、自分自身を振り返っても、もう30年も昔、どうしても許せないと思った出来事、相手がいて、いま思い出しても当時の心は変わることなく、水に流すなんて不可能だし、安易にそれを第三者から求められたら、求めた相手にも腹が立ちます。
人の心には他人が立ち入れない領域があって、年月はそれを強固にし、萩尾先生が書かれているように「永久凍土」となることもある。赤の他人が好奇心でそれを無理矢理溶かそうと、晒そうとするのは暴力ですよね。

終わりに

読後すぐは、この本の感想を書くのは控えたかった、自分だけの思い出と一緒に大切にすればいいと思っていました。でも、だろうなと思ったけどTwitterの感想がまとめられて衝撃とかタイトルをつけられて、きつい言葉も目にしてしまって都度都度いやな気持ちになって、だったら、自分の気持ちも言葉にしてこれをお守りにしようと思い、同時に、萩尾先生、竹宮先生、2冊の本に登場するすべての漫画家の先生方、そして伝説の編集者である故・山本順也さんに、あの頃、すべてが大好きでした、すばらしい作品をありがとうございますと感謝を言葉にしたくて書きました。 
萩尾先生、40年ぶりにもう一度エドガーと会わせてくださって、本当にありがとうございます。この先、アーサーと、そしてアランがどうなるのか、楽しみに読ませていただきます。宝塚の舞台も素晴らしかった。先生が「一度きりの大泉の話」を出版するにあたり、当時の読者も大人になっているからと、信頼してくださったのが嬉しいです。
竹宮先生、漫画家として、そして次世代の導き手としてのご活躍、心から応援しています。2012年に都条例で漫画が規制されそうになったとき(「非実在青少年」とかいわれたあのときです)、先生が、条例に反対する漫画家の先頭に立ってくださって、いまはない池袋の豊島公会堂で登壇してくださったときのこと、私は一生忘れません。少女の私に勇気をくれたジョミーのように、あの日の先生はヒーローでした。
最後に山岸凉子先生まじ神。先生がいてくださって本当によかった。毛人のバカ。でも35年ぶりくらいの厩戸皇子をもしお考えでしたら……かなりかなりこわいですが絶対読む。
「少年の名はジルベール」と「一度きりの大泉の話」は、同じ棚には置かないけれど、ずっと大切に持っていたいと思います。